日本語でいうと、「便りのないのは良い便り」です。
離れて暮らす人からの「便り」がないのは、無事に暮らしているので心配がいらないとの便りであるいう意味で使われていることわざです。

どうも人間は、情報がないと悪く考える傾向があり、それを戒めることわざでもあるように思います。

先日こんなことがありました。
ある方にお仕事をお願しましたところ、コミニケーションが不足だったのか、コンセンサスが充分ではなかったようで、期待した成果ではありませんでした。
改善案の検討を依頼したところ検討はされているようですが、そのプロセスが分からずにおりました。依頼した側としては、原因がどこにあり、それをどのように改善しようとしているのかを踏まえた、改善策を提示していただけるものと思っておりましたがありませんでした。
信頼している方ではありますが、自分の思考の癖なのか次にお願いするタイミングのことについて最悪の想定してしましました。
結果、改善策を提示され実施していただき、期待した成果をだしていただきました。

自分の心の動きを見てみます。
※は、自分が思ったことです。

1 期待した成果ではなかった。
↓  ※依頼するお仕事の仕様の提示方法が間違っていたのか
2 改善を依頼
↓  ※この方に成果を求めるのが間違っていたのか、しかし改善策の提示を期待
3 改善策が示されず
※改善する考えがあるのか
※そもそもお願いしないほうが良かったのでは
※お願いする方を変える必要があるのでは

振り返るとこのようなプロセスで、心が動いていたように思います。
結果は改善策を講じていただき、期待した成果をだしていただきました。
信頼している方とはいえ、最悪の想定をしていた自分が恥ずかしい気にもなりました。

また仕事柄、継続した事柄のご相談をお受けすることがあります。
ご相談いただいたあとどうなったか、気になり自分からお尋ねすることもありますが、次のステップのご相談がなかったり、経過をお知らせいただけなかったりすると、自分では力不足だったのかと自虐的解釈をし、ご相談をしてくれた方の心の中には、自分へのニーズはなくなったかと思ってしまう傾向があるように思います。
ホントにニーズがない場合もあると思いますが(汗

離れて暮らす大切な人を思う気持ちとは、次元がちがうようにも思いますが、自分のなかでは、このNo news is good newsは、過ぎた心配をしないための言葉になっています。

今日は反省のブログです。書くことで、No news is good newsがより自分のことばになりました。反省ブログのお付き合いいただき、ありがとうございますm(__)m